じぶんインタビュー

「子どもうじゃうじゃ」
の時代に生まれ、
気楽な学生時代から、
怒涛の社会人生活。
仲間と家庭に恵まれて

杉江 達弘(すぎえ・たつひろ)さん

1946年愛知県生まれ。姉と2人の妹の4人きょうだい。幼少期を名古屋で過ごし、小学校3年で東京に移り、大田区での中学校時代は一学年に700人以上がひしめくマンモス校に通う。早稲田大学商学部を卒業。就職した会社や家業でも、自らが経営に参画した会社でも多忙を極め、また経営的に安定せず苦労の多い社会人生活であった一方、子どもは2男1女、現在では孫にも恵まれ、家庭生活は安泰。地域で高齢者にパソコンを教えるなどしながら、妻との旅行も楽しむ。埼玉県在住。

樺太から戻らなかった祖父、「常滑小町」と呼ばれた祖母

お生まれは愛知県ですね。

杉江さんそうです。旧・知多郡岡田町の、お袋の実家で生まれました。お産婆さんが取り上げたんでしょうね。親父のほう、杉江家は常滑市です。昔から焼き物で有名な土地で、杉江の家も代々、土管の製造を生業としていました。

ではご両親共に、知多半島のご出身で。

杉江さんそうなのですが、二人が知り合ったのは台湾なんですよ。戦時中、親父は兵隊で、お袋は父親の仕事の都合で、どちらも台湾にいたんですね。同郷だから一緒になりなさいと、周囲の後押しで結婚したらしいです。

そうでしたか。同郷だからと。

杉江さんはい。杉江家のことをお話ししますと、本家は地元の旧家で、先ほど話したように土管を作っていました。塩ビなんかない時代、水道管でも水路でも全部粘土で焼いた土管を使っていましたから、本家も栄えていました。インフラですもんね。一方で分家にあたる私の祖父のほうは、商売もうまくいかず。というのも、すごい酒飲みだったらしいんです(笑)。

酒飲み。

杉江さん親父たちきょうだいが大きくなってからではありましたけど、祖父は単身、樺太に行っちゃったんですよ。理由が「樺太では酒が飲めるから」だったというくらいですから。

えええ。

杉江さん樺太に行ったきり行方が知れず、戦時中に亡くなったとされています。葬式も出しましたしね。祖母もまた、いわゆるいいところの娘で、「常滑小町」と呼ばれた美人だったらしいですよ。祖父との間に子どもが8人いました。2人は戦死してますけどね。

それはお祖母さまも、波乱の人生でしたね。

杉江さん杉江の本家のほうは家業も順調で、トヨタの創業者の豊田佐吉のね、孫娘にあたる女性が、養女となった先の石田家から嫁いできています。石田家は、トヨタの大番頭、トヨタ自動車の大争議を収拾して中興の祖と呼ばれた石田退三を輩出した家です。当時は家族ぐるみでつき合いがあったのでしょうね、祖母が亡くなったとき弔辞を読んだのは、この石田退三元社長だったんですよ。あの方もご出身は常滑で。

そんなご縁が。

杉江さんただ、栄えた本家の者は短命の傾向があって。途絶えてしまいました。対する、分家のこっちはお祖母さんの系統でしょうか多産系で、親戚の多いビッグファミリーとなっています。わからないものですね。

お父さまは、お祖父さまのように、なんというか、放蕩?ではいらっしゃらなかった。

杉江さんそうですね。親父が早くから名古屋に出たので、私も物心ついたころには名古屋にいました。親父が開発したトタンでできた一間の雨樋が、当時の、ちょっとした発明品だったんです。それを売って当たりましてね。さらに一旗あげるべく、東京に来たんです。私が小学校3年生のときですね。

それで名古屋から移って来られたのですね。

杉江さんはい。引っ越した先の大田区で通った区立の中学校は、1クラスに65人もいるわ、11クラスもあるわでびっくりしました。私は団塊といわれる世代より1年だけ先に生まれていますから、私の後の学年はさらに多く、13クラスです。もう、子どもがうじゃうじゃ(笑)。教室の数が追いつかずプレハブ校舎が当たり前で、理科室とか音楽室とかも潰して使っていました。

マンモス校というやつですね!いまでは考えられません。そのころの杉江さんはどんなお子さんでしたか?

杉江さん普通の子でしたけどね、中学までは成績が良くて、小6で受けた模試では東京都で8番だったのを覚えています。通った中学でも、600人の学年で常に1〜2番で。

それは優秀ですね。将来の夢はお持ちでしたか?

杉江さん特にありませんでしたね。親父に、理数系のほうが将来のためにいいと言われたので、大学は東工大(東京工業大学:現東京科学大学)を目指そうとは思っていました。

高校では、何か打ち込んだことはありましたか?

杉江さんどうでしょう。卓球部に入ったのですが、1年で行かなくなったし、熱心にやったのは受験勉強くらいですね。

東工大に向けて。

杉江さん高3まで、そう思っていたのですよ。でも理系は遊べなさそうだからおもしろくないなと、気が変わりまして。大学には遊びに行こうという気持ちでした。

ノンポリとして経験した、早稲田闘争で

それで早稲田に?

杉江さん一橋も受けたんですけどダメで、1年下はほら、人数が多いでしょ?競争が激化するじゃないですか。浪人はしたくなかったので、受かった早稲田にしました。商学部は数学で受験できたんですよ。

そうか、ずっと理数系に力を入れてきて、得意だったんですね。

杉江さんそうですね。

その早稲田での学生時代に、忘れられない事件が起こったんですよね。

杉江さん1年のときに早大闘争が起こりまして。慶大から火がついた、学費値上げに反対する学生の抗議活動が広がったんですね。いわゆるノンポリで、あまり積極的ではなかった私も、学内に泊まったりね、機動隊とぶつからないまでも、そうした場にいることはありました。その日は戸塚警察署に向けて大勢が詰めかけ、最後は3万人もが集まったと言われています。先鋭的な一団が、警察署に突入したんです。ところが中にいた人たちは突入の前にあっけなく退散していて、私が現場に到着したころにはすっかりいなくなっていました。婦人警官なのか、もしかしたら事務員さんが中心だったのかもしれません。

では、さほどの衝突にはならなかったんですね。

杉江さん私が驚いたのはその後なんですよ。そうは言っても、あれほどの人数が警察署に押し寄せ占拠したのですから、これは当然、大変なニュースになるだろうと思っていたんですね。ところが、テレビもラジオも新聞もだんまり。一切報道されなかったんです。何もなかったかの如くですよ。警察署が襲撃されて、署員はみんなさっさと逃げただなんて国に都合が悪いことは、報じてもらっちゃ困ったんでしょう。

国家権力の、沽券に関わるから。

杉江さんそうそう。だからそのとき思ったんです。報道の自由だなんていうけど、この国にそんなものはないんだって。それに、警察署に行くまでもね、信号が青にならないんですよ。信号機の下のところで、私服ではあるけれど一目で警察官とわかる人がコチャコチャ操作してました。

あぁ、みんなが警察署に行くことを妨げるために。

杉江さん戦後の民主教育を受けてきましたからね、警察官は悪い人を捕まえる正義の人だと、そのときまで信じてました。にも関わらずあんな姿を見せられてしまって。あのときを境に、「おまわりさん」が「ポリ公」に変わりましたね(笑)。

あはは。以降、大学生活はいかがでしたか。

杉江さん気楽なものでしたね。あのころは、10人くらいの仲間のうち1人が授業に出てみんなの名前を書いてくれば、全員出席扱いになったんです。大学に行くより麻雀ばかりしてました。勉強しない者ばかりで集まって、楽しくやったものです。

将来への展望は?

杉江さん相変わらずありませんでした。

お仲間とのおつきあいは、卒業後も続きましたか?

杉江さんはい、それはずっと。さすがに最近は、みんな年取っちゃいましたからそうそう会いませんけど、ずっと仲良くしていました。

早大生時代の杉江さん

働き盛りは、文字通りの仕事漬け

それは何よりの財産ですね。でも、そんなお仲間との、「気楽」とおっしゃる大学生活とは打って変わって、社会人になってからはご苦労が多かったのだとか。

杉江さん親父の板金工場に誘われて、最初に就職した会社を1年で辞めたんですね。親父のところでは5年くらい働きましたが、だんだん事業が縮小していく時期で…。結局廃業したのですけど、それより前に私も転職を余儀なくされまして。転職先のハウスメーカーでも5年くらい、管理業務を任されました。ここがまた廃業する運びとなって、その際に私を含めた何人かが、あたらしい会社を立ち上げて、同種の業務を存続したんです。今度は大手ゼネコンの、事実上の住宅部門の窓口業務を担う、関連会社でした。急成長しましてね、住宅展示場をいくつも増やしたので、ものすごく忙しくなりました。

では、成功したんですね。

杉江さんそれが薄利で、儲からないのに忙しかったんです。私は営業以外は全部やりましたね。経理も総務も人事も。インテリアコーディネーターの採用では小さな広告を出したのですが、大手の看板の効果で、1人か2人の枠に500人くらいもの応募がありました。熱心な人はアポなしで模型を持って訪ねてきましたね。私は夜中まで働く忙しさでしたので、2次面接も履歴書で学歴と容姿を見ただけで判断していました。申し訳なかったです。設計までやってましたからね…。

設計まで!

杉江さん習うより慣れろというアレです(笑)。その経験のお陰で自宅を建てるときも基本設計は自分で。

すごいですね。

杉江さんでも、とにかく忙しいのと資金繰りが厳しいのとで、本当に大変で。人件費だけでカツカツだったんです。自宅を担保にお金を借りて賞与を払ったこともありました。

おいくつくらいのときですか?

杉江さん55歳くらいまではそんな調子でしたね。

では、働き盛りは文字通り仕事漬けでしたね。

杉江さんその通りで、たまの休みは疲れてひたすら寝てました。

それ以降はどうだったのですか?

杉江さん結局、本体の大手ゼネコンが事業を買い取ることになったんです。借金のある会社だったんですけどね、あちらとしても、我々に会社を畳まれたら住宅事業がなくなってしまう状況だったので、やむを得なかったのでしょう。従業員もそのまま移行して、役員だった私は部長職に就き、60歳の、定年まで働きました。

確かに、ご苦労の多い社会人人生だったのでしょうが、ご自宅を持って行かれたりしなくてよかったですね。

杉江さんそうですね(笑)。いろいろ、うまくやれたとはいえないでしょうが、ひとつ自慢がありまして。

はい。

杉江さん退職の際、送別会に300人もの人が来てくれたんです。

300人!それはずいぶんと…、慕われていらしたんですね。

杉江さん何でもやってきたので、何でも私に聞けばわかるというのですかね、事業所を問わず電話で尋ねられたり、相談されたりで、多くの人との接点があったんですよね。

会社の生き字引。それに、みなさんにとっては何でも聞きやすいお人柄だったのではないですか?

杉江さんそうだったんですかね。その送別会というのがまた、年末も押し迫る12月28日で、みんな忙しかったはずなんですよ。そんな人数が入る店もなくて、歌声喫茶みたいなところで。

うれしかったですよね。

杉江さんうれしかったですね。記念品には、女性社員が勧めてくれた冬物の高級ブレザーを買ってもらいました。いまもずっと、大事に着ています。

仕事漬けだった当時、職場の人たちと

家庭については、ラッキーだった

素敵な思い出になりましたね。ところで、家にいるときは寝てばかりという、かつてのモーレツ社員だった杉江さん、ご家庭は……。

杉江さん息子が2人、娘が1人。このインタビューも息子が見つけてきて、勧めてくれました。

奥さまが、立派に育ててくださった。

杉江さん立派というわけでもないと思いますが、幸い、グレるようなこともなく(笑)、ちゃんと育ってくれました。

奥さまとはどのような経緯でご結婚されたのですか?

杉江さん親父の会社から転職した先の、ハウスメーカーでの同僚でした。

最初の印象は?

杉江さんうーん、どうだったかな……。「背が高い」かな。

最初のデートには、杉江さんが誘った。

杉江さんきっと私が誘ったのでしょうね。

どうして、この人と結婚したいと思われたのですか。

杉江さんいやぁ、もう忘れちゃいましたけどね……。一緒にいたら楽しかったんだと思います。外で頻繁に会うほどの時間もなかったのですけどね、映画の帰りに行ったバーで、「一緒にならないか」と言ったら泣いたんですよ。

うれしくて、ですよね?

杉江さんうーん、あとから本人に聞いても、わからないって言うんですよね(笑)。

いいお話ですよね、きっと(笑)。

杉江さん会社生活では借金もして大変なこと続きでしたけど、家庭についてはラッキーだったと思います。子どもたちもいまはそれぞれに家庭を持って、孫が7人います。

みなさん、お近くに?

杉江さんいまは埼玉、東京、神奈川と、みんな首都圏にいます。長男は仕事の関係でアメリカにいた時期もありました。孫の一人はアメリカで生まれているんですよ。

そうですか。お正月だとか、集まることもありますか。

杉江さん正月は賑やかですよ。多産系の家系と言いましたが、私の妹は5人子どもがいまして、あちらの孫にいたっては何人いるのかもわからないほどです。世の少子化とは無縁ですね(笑)。

ご祝儀だとかお年玉だとかは大変ですね(笑)。

杉江さんあはは。そうなんですよ。

杉江さんは現在80歳とのことですが、地域の高齢者を対象に、パソコンやスマホを教えていらっしゃるそうですね。

杉江さん40人くらいにね。あと、無農薬で育てた野菜を、地域のレストランに卸してるんですよ。

40人の先生もですが、野菜を卸しているのもすごいですね!

杉江さん最初は一件だったんですけど、「うちにも」というところが出てきましてね。

評判になった。

杉江さん安いからじゃないですかね(笑)。朝採りを持っていきますしね。

ではいまもなかなか、お忙しいですね。

杉江さん肺がんを患って、3分の1を切除したんですね。だから肺活量を増やす訓練にと、吹き矢もやってます。あまりヒマはないですね。

吹き矢!成果は現れましたか?

杉江さんどうでしょうね。でも鍛えられた実感はあります。それに、腕前も上達しました。

ご立派です。奥さまとはお出かけされますか?

杉江さん国内外、結構あちこち旅行に行きましたよ。

仲良しですね。

杉江さん普通ですよ。女房は、うるさいんですよね…。でもまぁ、仲良しったら仲良しかもしれませんね。

いいですねぇ。この「じぶんインタビュー」を勧めてくださった息子さん含め、ご家族にこの際伝えておきたいことはありますか。この先、こんな人生を送ってもらいたいとか。

杉江さんもうみんな大人ですから、私が口出ししてもね。思い思いに、自分の人生を生きてくれたらいいと思います。あ、そうだ、いまは土地もそれなりに値上がりはしているらしいので、相続とかで揉めないでほしい。これは言っておいたほうがいいですね。

奥さまと、2007年秋に旅行したマチュピチュにて

編集後記

終盤に吹き矢のお話が出ましたが、ほかにヨガやウォーキングも続けられているそう。現役時代の長時間の座り仕事のせいで患った腰痛が、ヨガですっかり改善したご経験から、ご自分でお身体をメンテナンスする習慣を身につけられたそうです。パソコン教室や野菜の栽培もしかり、年齢を重ねるごとに、あらたに何かを始めるハードルは上がりそうなものなのに、ご立派です。会社で営業以外は全部やったとおっしゃるのも、あるいは人手の問題以上に、杉江さんがどれも率先しておやりになった結果だったのかなと、300人もの送別会を想像しながら思いました。あとやはり、奥さまの功績大かと!

(2026年10月インタビュー)

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